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「Boys, be ambitious」―クラーク博士が日本の人々に残したもの

こんばんは!クラーク記念国際高等学校 公式noteです。
「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の名言とともにその名を知られているクラーク博士は、1年に満たない短い滞在期間で日本の人々に大きな影響を与えました。その魅力あふれる人物像を紹介します。

ケンカも強い!? 情熱家だったクラーク博士

「博士」というと、「物静かな学者」をイメージする人も多いかもしれません。しかし、クラーク博士は違ったようです。クラーク博士の教え子の一人である大島正健は、著書で次のように語っています。

先生は少年の頃から負けず嫌いで非常に勝気な方であった。〔中略〕また喧嘩にも強かったそうで、その性質が終生の行動に現われ、何事に対しても忍耐してその素志を貫き、たえず戦闘意識に燃えて事に当たっていた。
(『クラーク先生とその弟子たち』著者:大島正健/改訂増補:大島正満・大島智夫/教文館(1993年)より)

勝気なだけでなく、ケンカも強かったとは驚きです。

また、クラーク博士が亡くなったとき、地元の週刊紙に掲載された追悼文にはこんなふうに書かれています。

彼は何をなすにも全身、全霊を傾けてこれに当たった。勉学の時は脇目もふらず、仕事の時は寝食を忘れ、共に働く他の人々にもそれと同じことを求めた。
(『W・S・クラーク――その栄光と挫折』著者:ジョン・M・マキ/訳者:高久真一/北海道大学図書刊行会(1986年)より)

母国アメリカではもちろん、日本でも変わることなく、物事にも人にも妥協せずに力の限りを尽くした情熱家の姿が浮かび上がります。その人生をたどっていきましょう。

大学教授から戦場に!? 情熱の人クラーク博士の経歴

クラーク博士ことウィリアム・スミス・クラークは、1826(文政9)年7月31日にアメリカのマサチューセッツ州で生まれました。

名門アマースト大学に進んだウィリアム青年は、化学や鉱物学、植物学などを学び、優秀な成績で卒業。高校教師として働いたのち、ドイツの大学に留学します。ドイツでは博士号を取得し、「クラーク博士」が誕生。帰国後は26歳の若さで母校アマースト大学の教授となります。

それから9年後の1861(文久元)年、クラーク博士の情熱に火をつける出来事がアメリカで起こります。南北戦争です。熱烈な共和党支持者だったクラーク博士は、共和党の出身で奴隷解放を唱え北部を指導した第16代大統領リンカーンに共鳴。安定した大学教授という地位も顧みず、少佐として北軍(義勇軍)に加わります。戦場では数々の戦功を立て、大佐に昇進。南軍の独立を食い止め、奴隷解放の思いを実現しました。

戦場から戻り、アマースト大学に復職したクラーク博士が次に情熱を傾けたのは、農科大学をアマーストに誘致するための運動でした。1864(元治1)年には、なんとマサチューセッツ州議会の議員となり、翌年に誘致を実現させています。強い意志で使命を成し遂げたのです。

超高額!? クラーク博士の日本での年俸は?

1867(慶応3)年、クラーク博士は新大学=マサチューセッツ農科大学の学長に就任します。明治政府が、いわゆる「お雇い外国人」の一人としてクラーク博士を日本に招いた理由は、博士が学長を務めるこのマサチューセッツ農科大学を、新設する札幌農学校のモデルにしようとしたからだといわれています。

真似ようとしたのは、農学だけではありません。当時、マサチューセッツ農科大学のカリキュラムには軍事教練が組み込まれていました。明治政府は南下をもくろむロシアの脅威に備えるため、札幌農学校でも軍事教練を取り入れようとしたのです。

クラーク博士は、学者や農科大学学長としてのキャリアに加えて、南北戦争で活躍した軍人の顔も持つ、明治政府としてはうってつけの人物でした。

その証拠が年俸の額にあります。クラーク博士の年俸は7,200円。月に換算すると600円です。今の貨幣価値からすると「それだけ!?」と驚くかもしれませんが、当時の右大臣岩倉具視の月給が同じ600円*1だと知ると、かなりの高額だったことがわかります。

ちなみに、教科書にも登場する有名「お雇い外国人」の月給を見てみると、岡倉天心とともに日本美術界に大きな影響を与えたフェノロサが300円*2、大森貝塚を発見した動物学者のモースでさえ350円*3で、クラーク博士の報酬がいかに破格だったかがうかがえます。

【本文3の注釈】
*1〜3:『お雇い外国人』梅渓昇/日経新書(昭和40年)より

学生のハートを鷲づかみ! クラーク博士の教育方針

1876(明治9)年3月3日、クラーク博士は札幌農学校の教頭として赴任する契約を結びます。マサチューセッツ州立農科大学の学長を務めながらになるため、任期は渡航日数を含めて1年。同年7月31日に札幌入りしています。

札幌農学校の1期生は16人(卒業時13人)。クラーク博士は開校してから間もなく、それまでにあった細かな規則を廃止にすると伝え、彼らのハートを鷲づかみにします。博士が彼らに望んだのは一点のみ、「Be gentleman」=実直に勉強し自分の良心に従って行動する紳士になれ、ということだけでした。

また、寒い北海道でのこと、ポケットに手を入れている学生を見つけると「クラーク大佐」の登場です。「クラーク玉」と呼ばれたとびきり硬い雪玉を学生に投げ、学生が応戦すると雪の上で取っ組み合いを開始。大島正健によれば、そうしているうちに「破顔一笑『これで暖かくなったろう』といってかじかんでいた生徒の肩を叩く」*4といった感じで、学生との間に壁をつくりませんでした。

学生たちはクラーク博士のこうした人柄にどんどん惹かれていき、博士から手渡された聖書の勉強も行うようになります。そして1877(明治10)年3月5日、クラーク博士が作成した「イエスを信じる者の誓約」に1期生全員が署名。彼らの一部と、同じく全員が署名した2期生の一部は「札幌バンド」と呼ばれ、後年、日本のプロテスタントに多くの影響を与えたのです。

【本文4の注釈】
*4:『クラーク先生とその弟子たち』著者:大島正健/改訂増補:大島正満・大島智夫/教文館(1993年)より

「Boys, be ambitious」を胸に生きた、札幌農学校の1期生&2期生

クラーク博士が有名な「Boys, be ambitious」の言葉を学生たちに贈ったのは、博士が札幌を離れた当日、1877(明治10)年4月16日のことでした。

「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。ではいよいよ御別れじゃ、元気に暮らせよ。」
といわれて生徒と一人一人握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、
“Boys, be ambitious”
と叫ぶなり長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された。
(『クラーク先生とその弟子たち』著者:大島正健/改訂増補:大島智夫/教文館(1993年)より)

札幌農学校1期生の胸には、このときクラーク博士から贈られた「Boys, be ambitious」の言葉がしっかりと刻まれました。そして、前出の大島正健は言語学者になったほか、同じく1期生の佐藤昌介は札幌農学校を前身とする北海道帝国大学の初代総長に、伊藤一隆は水産界や石油開発事業で活躍し、内田瀞(きよし)と黒岩四方之進(よものしん)は北海道の畜産界に貢献するなど、それぞれが「大志」を実現させていきます。

また、キリスト教思想家の内村鑑三、『武士道』の著者で五千円札に肖像が使われた教育者の新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾ら、1期生からクラーク博士の教えが伝えられた2期生も、「大志」を抱いて世に出ていきます。

このうち内村鑑三は、後年アマースト大学に留学。晩年のクラーク博士と初対面を果たしています。札幌農学校で直接教わったわけではありませんが、内村は自身を「クラーク系」と称し、博士を敬愛していたようです。

大志を心に抱いて努力すること――数多くの使命を、情熱を持って成し遂げてきたクラーク博士は、その大切さを伝えようと「Boys, be ambitious」という言葉を別れ際に残したのかもしれません。

クラーク記念国際高等学校は、こうしたクラーク博士の精神を受け継いで設立された学校です。クラーク記念国際高等学校の教育はクラーク家からも認められており、5代目の子孫に当たるデブラ・Y・クラークさんは北海道本校を訪問。生徒や保護者との交流を行っています。

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